数を表す単語

ピダハン語は数を持たないという。

数を表す単語も、「1」,「2」,「3」と「たくさん」ぐらい。ピダハン語だけでなく、数を表す単語が少ない言語は他にもいくつかあるそうで、我々から見ると、それでなにか不都合が怒らないのが不思議でたまらない。不都合が全くないということはないにせよ、指の数より少ない数詞で生活できるのが、ホント不思議だ。

数詞が少ない言語はたくさんあるのだが、ここでは代表的なピダハン語でそれを呼ぶことにする。

※寄り道だが数学用語を使って説明すると、「ここでいう「ピダハン語」とは、数詞が少ない言語の集合から選んだ一つの代表元」ということである。つまり、数詞の少ない言語のことをピダハン語とここでは呼んでいるということである(まわりくどい説明で申し訳ない)。
※驚くべきことに、ピダハン語の数詞は「1」、「2」、「3」どころか、それよりもっと少ないらしい。

数詞とは別に単位がある

数詞はすくなくても、実はいろんな単位があって、それと組み合わせることでいろんな数を表しているようだ。例えば、例がよいのか疑問もあるが、卵2個という言い方と、卵2籠というように、同じ2でも、単位を付け加えることで多くの卵を表す。また、数詞自体も繰り返し使うことで別の数を表すこともある。例えば、2を2回使うことで、2+2つまり、4を表すなど。

1が10個をひとまとめにして数える。10が10個で100をひとまとめにして百、繰り返して10単位でひとまとめにしてより多くの数を表す。数を表す文字としては、0~9の10種類だ。これを組み合わせて多くの数を表す。桁を3桁おき、もしくは4桁おきに区切るのを考えうと、実際には10個単位ではなく、3個、4個の塊でみることも多い。

そう考えると、文字としては「1」「2」「3」の3種類ぐらいの数があればかなり広範囲な部分で用が足りていることがわかる。

そう考えると、ピダハン語に代表される、数詞の少ない言語も十分実用的であるわけだ。実際よくよく考えうと、我々はたかだか5個で一塊をみるのがちょうど良さそうである。電話番号にしても、郵便番号にしても3桁ないし4桁の塊でみている。6桁のID番号が付与されたのなら、即座に3桁と3桁にわけて覚えるのが覚え方のコツだ。

「たくさん」とは

さて、われわれは、たくさんの数詞をもっているにしても、分析したり思考するときには、「1」「2」「3」ぐらいで考えることで用をこなしている。ところで、ピダハン語には、もう一つ重要な数詞がある。「たくさん」だ。「1」「2」「3」を組み合わせていろんな数を表すことができるが、「たくさん」は表すことができないわけから「たくさん」が必要なわけだ。

どういうときに使うのかというと、もちろん、4以上の表すことのできない数を表すときであるわけだが、これは数えきれないぐらいたくさんある状態を表す単語だ。私は言語学者でないので言語学的なことはわからないが、「たくさん」は、「数え切れない」という意味でも使っているだろうと考えている。

ピダハン語に「無限」という意味を表す単語があるかどうかわからないが、ピダハン語の「たくさん」は我々の無限という意味としてでも使っているのではないだろうか。

ある程度多くなってくると「たくさん」そして「無限」

実は、我々も数えられるものを無限とみなして考えることがある。論理的には数え切れないことが無限であるのだが、例えば、砂の数は無限、星の数が無限、宇宙に充満している素粒子の数は無限のように、有限であるものでも、ある程度を超えると無限として考えている。

ある程度がどの程度なのかは、状況によりけりだが、ある程度より大きいもの、これを無限とする。これが無限を具体的に捉えるための第一歩だろう。

解析でも、このような考えはよくでてくる。ある程度が不定なため、Nなどという数で表してこれより大きい数を無限と考えて論理を組み立てる。

Nより大きい数はすべて「たくさん」だ。つまり無限である。

Nより大きい数がいくつもあるのはわかっているが、それらをすべてひっくるめて無限と称して扱うのである。

「たくさん」については、他の数との比較や演算が定義されていないので、数と呼ぶに値するかどうかは、ここでは言及できないが、数を扱う上で「たくさん」のような存在を仮定して考察したり、その存在について追求することは、数のことをより深く知る手がかりとして実に有益なことなのだ。

まとめ

  1. 数詞が少ない言語であっても、無限の概念が存在する。
  2. 我々は、ピダハン語に比べたら、比較にならないぐらい多くの数詞を持っているが、それでも考え方はピダハン語の考え方と五十歩百歩だ。
  3. 我々は、無限についてはっきりとした実態を捉えることができないので、ある程度より大きい数を無限とみなして思考している。今のところ。