開区間(0,1)と閉区間[0,1]と無限<大>

$$ (0,1) \underset{def}= \left\{ x| 0 \lt x \lt 1 \right\}$$

$$ [0,1] \underset{def}= \left\{ x| 0 \le x \le 1 \right\}$$

開区間の代表例(0,1)、閉区間の代表例[0,1]、両者のち違いは、0や1を含むかどうか。

この0や1を含むかどうかで、幾何学的には全然異なる性質をもつ。

ここにも、無限の秘密が潜んでいる。(0,1)からみたら、0は無限小、1は無限大のような存在だ。(0,1)からみたら、1は可能無限である。一方、[0,1]は1を含んでいる。つまり1は実無限だ。

ここで可能無限の1と実無限の1と両者は同じようにみえるが、実は異なるものと考えるのが自然である。これがここでの主張である。

いや、私も、両者は同じだと考えていた。同じであって欲しいと考えていた。しかし、どうしても同じにできないのである。(0,1)はアキレスと亀の世界だ。永遠に1に辿りつことができない。[0,1]はアキレスをより上位の世界からみた世界だ。アキレスは1に近づく。その先には1の存在がある。いつかは1に到着するように見えるだろう、しかし、1に到着することはありえない。あって欲しいがあり得ない。

無限の時間が経過したら1に到着するといえるだろうか、いや言えない。無限の時間というのは数としては掴み所がないのである。もし数としての無限の時間があるとしたら、その半分の時間も考えなければならない。数は半分にできるから。無限の半分の時間でアキレスはどうであろうか、無限の半分もアキレスからみれば無限だ。無限の半分の半分もこれまた無限だ。半分にすることは無限に可能だ。無限を半分にする操作は永遠に続けられる。この操作を無限の時間をかけて経過したことを想像することができるであろうか。そのとき、アキレスはどの地点にいるのだろうか。

ふたたび[0,1]について考えよう。このなかで無限大を表すのは、1しかない。その無限大の半分もまた無限大であるから、もし[0,1]のなかにその半分の無限大を見出そうとしたら1しかないのではないか。これを永遠に繰り返しても、無限が有限に変わることはないから、無限をなんど半分にしたとしてもそれは無限であって、1から抜け出すことができないのである。

つまり、(0,1)からみた1と[0,1]からみた1とは性質が異なるのである。

 

 

コメント

  1. 三文字(i e π)寄れば文殊のヒフミヨ より:

     ≪…(0,1)からみた1と[0,1]からみた1とは性質が異なる…≫を、十進法の基における西洋数学の成果の符号(i e π ∞)と[1][0]とで、人(私たち)が[形態空間](ニッチ)で峻別できる1・2・3・4次元の数[1]を次元数体として眺望する【 量化って 極々簡単な数値計算 】の事例から、数の言葉ヒフミヨ(1234)の[離散多様体]と[連続多様体]の行き来を眺望したい・・・
     数の言葉ヒフミヨ(1234)が、平面(2次元)からの送りモノとして捉えると、eの肩に遊ぶ数として自然数(ヒフミヨ)の本性を観る・・・
     

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