可能無限に絞る
可能無限と実無限について、その両者を対にし対比しながら意味を考えるのが王道である。しかし、ここでは可能無限に限定し、その例を示しながら可能無限とはなにか、その意味を確認する。
ここでは数を研究する目的で可能無限について考えているわけで、数学的な意味の追求しかしない。
実無限を後回しにする理由
可能無限と実無限とでは、可能無限の方が理解しやすい。
ざっくりいって、可能無限の説明には自然数で十分である。一方、実無限については、実数の例がよく使われる。
自然数より実数の概念の方が奥深い、それと同様に、可能無限より実無限の方が奥が深い。
そして、なによりも実無限について考える前に、実数について良く知っておく必要があるが、意外にも実数について感覚的には理解しているものの、実数を定義すること、実数がどのように構成されているのか、つまりは「実数とはなにか?」がよく説明されていないことが多い。
しかも、実数については、いろいろな誤解が生じやすい。その最たるものが、0.999…=1の説明である。
実数=無限小数は、間違いではないが、得体の知れない無限について語るのであればもっと厳密な定義を示しながら、実数と無限小数の関係を示しておくべきである。
実無限の概念を述べるためには実数についての知識は不要であるが、このサイトは数学的な話題を扱っているので、実数の例をもって実無限がどう扱われているのか検証する。
ただ、現段階では、実数の例を使って実無限の検証に入るための下準備ができ上がっていない。
そこで、まずは可能無限だけに焦点をあて、その例を通して可能無限とはなにかをまず検証する。
私流の定義としての可能無限とは
「可能無限」とは、私流に簡単にいうと、「終わりがない」ということである。「終わりがない」といのは、「いくらでも続く」ということである。
終わりがないところに無限の性質がある。その無限の性質が可能無限である。これが私流の定義である。
そもそも、可能無限の原点に立ち返ってみると、その発端は、アリストテレスの時代にまで遡り、そこでは、「自然数が無限にある」と性質から来ているようである。
どんな自然数に対しても、その次の(それより大きい)自然数が存在しうる。これが自然数の性質だ。自然数は数えきることができない。いくらでも数えることができる、数えることに終わりがない。この状態が可能無限が引き起こす性質である。
ここで、すべての自然数を数え終えた状態、このような状態があるのかないのかは関係ない。いくらでも数え続けることが可能である、この状態が生み出せるのが可能無限だ。
限度なく数えることが可能な状態すなわち終わりに到達しない状態、これを可能無限とする。
可能無限の代表例
一つ目の例は「自然数が終わりなく数えられること」
自然数を数えきることができない、このように数えきることができないのは、自然数が無限の可能性をもっているからであり、その無限(の性質)のことを可能無限と呼んだのが可能無限の始まりだということらしいのだ。
終わりがないというのは、数えるという行為は果てしなく続けることができ、どんなに数えても、その次があるため、自然数をすべて数えきることができない。つまり、数えるという行為は終わりがないのである。このようにある行為が終わりなく続く性質を可能無限と呼ぶ。
二つ目の例は、「限りなく分割し続けられること」
終わりがない行為で、もう一つの例は分割することである。なにを分割するのかといえば、線分である。線分を半分にする行為、これはいつまでたっても、終わることなく続く。したがって、半分にするという行為は、可能無限の性質を帯びている。
どんなに細かく線分を分割していっても、その行為はすきなだけ続けることができるし、終わりが来ることがない。
三つ目の例は、アキレスが亀に、いくらで追いつこうとする事ができること
実無限の説明でも使えるので、アキレスと亀の例を出す。
アキレスと亀の寓話は、無限のパラドックスとしてよく引用される。アキレスが亀に追いつこうとしても、追いつくことができないという寓話である。
アキレスが亀に追いつくためには、アキレスが亀のいた地点まで移動する必要がある。その移動の時間はゼロではないから、その間に亀はいくらか前進する。亀においつくためにアキレスはさらに、亀が前進した地点まで移動しなければならない。
このように、時間(距離)を分割することにより、アキレスが亀に追いつこうとする(亀のいた地点まで移動する)行為は終わりなく続けられる。この状態が可能無限だ。
追いつくとか、追いつかないとか、そこの視点でみるのでなく、「追いつこうとする行為」が何度でも実行することが可能となっている点に着目する。これは、アキレスが亀に追いつくまでのステップ(時間)を際限なく分割しているのと同じともいえる。
この例は、時間を分割する行為が「何度でも終わることなく続けられる」ともいえる。
四つ目の例は、行為がループしていること
プログラミングなどで、終わりがない状態を「無限ループに陥った」ということがある。
自然数は次から次えと新しいなにかが生産され続ける状態であるが、ループというものは、振り出しに戻るがゆえに、同じ行為が何度も繰り返されるわけである。しかし、繰り返し実行された行為の回数を考えると、これも可能無限の性質を帯びている(とここでは考える)。
地球が太陽の周りを終わりなく回り続ける、時計の針が同じところを回り続ける、こういった行為も可能無限の要素である。終わらないので。
つまり、可能無限とは、終わりのない行為が永遠に続く状態をいう。
可能無限は無限大か
可能無限とは終わりがない状態であるから、完結することがない。永遠に続くということである。
そうであるから、可能無限は無限大という個数を表す数ではないし、どの自然数よりも大きな存在(の一つ)でもない。
可能無限は、無限の存在を示唆する可能性であって、無限その物ではない。
先ほどの例2や例3で分割する行為について述べたが、これを距離や時間が無限に分割できたと(言いたくなっても)言ってはいけない。ここは注意を要する部分である。いくらでも分割することは可能であるが、それが「無限に分割できるから終わらない行為が生じた」、とは考えていない。
そもそも無限に分割できるかできないかはここでの議論の対象ではないし、無限という得体のしれないものについて考えたいのに、そこで無限というよくわからない概念で分割するなどといわれてもそれは、可能無限で考えている限りは蚊帳の外の話にしかならない。
可能無限は、無限大ではない。数(自然数)の上限(の一つ)でもない。
可能無限は無限大の存在を否定するのか
可能無限の立場の人とは、無限大という存在を認めない立場と言われることもあるが、それは実無限と対比するためにそうにょうな表現になっているのであろう。可能無限の立場では、無限大の存在を認めないわけではなく、認めることも認めないこともどちらとも言えないという立場である。つまり、宇宙の果ての外について、あるのか、ないのか、どうなっているのか、そんなことをいくら考えたとしても、それらは、思考の世界で認識できる範囲の外側のことなので、判断することができないという立場だ。
可能無限の立場は、無限大の存在を承認もしないし否定もしない。
終わらない行為、永遠に続く行為、これらの行為の存在を認めているだけで、それが唯一の無限に対する認識だということである。
このことを極論的にとらえ、すべてのものは有限の世界で考えるべきとし、無限に続くものをすべて排除するような考え方もありうるが、叶無限の立場であっても、そこまで究極的に考える必要はないと考えている。
たとえば、循環小数 0.333…+0.333…を考えることを否定する立場の人のことを指しているのであるが、可能無限の立場では、0.333…という数は小数点以下が無限に続いている数であるから、考えることができず、ましてやそれらの足し算を考えることもできないというのである。
たしかに、0.333…といった数がどのような数を表しているのか説明は必要であるが、これが無限に続いている数だからこのような数は存在を認めないと決めつけるのは早計である。きちんと0.333…を有限の形式で表現することは可能であるから、つまり1/3とあわわすことが可能であるから、0.333…を1/3の意味で使っているとするのであれば、可能無限の世界でも計算は可能である。
このあたりは、実無限のところで言及したい。
終わらない行為が終わらないわけではない
アキレスと亀の例で示されるように、アキレスが亀に追いつこうとする行為は何回でも行うことができる。だが、これがアキレスが亀に追いつかないというこをと意味しているわけではない。何回でもできるという意味では終わらないが、追いつくという意味では終わこともある。
「終わらない行為が終わらないわけではない」というのは、「何回でも実行できる行為」=「終わらないとは限らない(終わる事もある)」という意味だ。実に、意味の通じない表現である。
ここが無限のいやらしい性質だ。永遠に続くことと、無限に時間を要すること(すきなだけ長い時間をかけても終わらないこと)は別の話である。
まとめ
- 数学的な見地で可能無限を考えるため、例をあげて可能無限を説明した。
- 可能無限の代表的例は、数え切れないこと、分割しきれないこと。
- アキレスと亀の例では、追いつく行為が終わらないこと。
- 可能無限は終わらない状態であって、なんらかの数量を表すものではない。
- 可能無限の立場は、無限大の存在を肯定しないが、否定してるわけでもない。
- 可能無限の立場は、無限小数の存在を否定してるわけでもない。
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最後に
独自の論理展開を行なっていくうえで、結果的には他人の考えを否定するような結論になることもあるが、間違い探しをしているわけではなく、自分と意見を異にするサイトなどを中傷する気持ちは全くない。記事を書く上でいろいろなサイトを参考にさせていただいた。それらの先輩サイトは当然尊敬しながら参照している。そうであっても、やはり納得いかない部分も実際にはあるわけで、自分自身の主張を顕に書いている。
私自身、なにからなにまで知り尽くした上で論理を進めているわけではないが、できるだけ真理にたどり着きたい一心の思いで記事を作成している。したがって、自分自身も間違いを見つけたり、気がついた場合には、逐次内容を書き換えていく所存である。